歴史。 |
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湯島出身古賀寛治くんの”時の回廊”
* 湯島出身の古賀寛治君の素晴らしい湯島紹介の大作品です。 これは我々島出身者にとっても.時として故郷を返り見る、 故郷の歴史ロマンそして郷愁を誘う感動的HPです。 ぜひ立ち寄っていただきたい故郷感をなくしてしまった、 時代に、よみがえる.又探しているものが存在するかも 知れません。 |
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日本の子守唄
* おどんがもった子は 天草郡竜ヶ岳町 おどんがもった子は 岩屋にゃくるんな
岩がくずるりゃ 死んでしまう
おどんがもった子は 湯島にゃくるんな
湯島談合島 はなれ島
おどまかんじんかんじん あん人たちゃよかし
よかしゃ きりょうよし 姿よし
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日本の端っこ3
* 熊本県・湯島灯台 湯島に上陸し、西の浜の民家の間の細い道を過ぎ、急坂を登って灯台を目指すと、坂を登りきってちょっと下ると、畑の奥に湯島灯台が見えてきました。
背景に雲仙普賢岳の眺望.早崎海峡(有明海の出口)に沈む太陽は素晴らしい。 一度見る価値が有ります。
左は.港の防波堤の先端の赤灯台。 |
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湯島出身.森慈秀公の歴史的.偉大なる決断。
* 森慈秀翁は.湯島出身で長崎(出島)〜上海〜南米〜日本.と翁はともすれば出稼ぎ意識の多い中で湯島を見つめ.熊本を見つめ.九州を...日本を...世界を.... その中の天草を見つめ直されたにちがいない。公は早稲田大學に入学する 傍ら株式会社設立と67社におよぶ株式会社の大株主であった。
現在健軍自衛隊になっている土地はかっては翁が企業誘致された飛行機工場(三菱飛行製作所)の跡地と聞く.現在の県庁も翁の所有地あったと聞く. 後年は仕事のない時代に湯島から.大矢野から.天草から.翁の株主である会社に幾多の若者が仕事を求めて就職していったかは多くの人々の知るところです。
大人物にある。大きい思いと繊細さ.企業.政治の裏と表全て合わせ持つ人で あった。しかし。島民達の翁に対する中傷も多かったが翁は実に決然と公然と”大”なるものに挑戦されたことをふるさとの誇りに思う.
離島の苦しみは離島のものにしかわからない。海で隔てられているばかりに、熊本本土との間に文化的にも経済的にも大きな開きを感じていた天草島民の願いは、熊本本土と一つになることだった。慈秀翁はその思いを真面目に受けとめたのである。
■天草五橋を作った男、森慈秀翁 二号橋公園にあるこの銅像の人物。県議、旧大矢野町長時代を通じて、五橋建設の必要性を粘り強く訴え、ついに1966(昭和41)年の開通を実現させたそうです。天草の発展に情熱を注いだ森慈秀翁は3期12年の町長時代の全給与を町に寄付したとのこと。1966年ということは今年はちょうど40周年に当たりますね。こうして天草の紹介ができるのも森翁はじめ多くの方々のご尽力があったことに改めて気づかされました。
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天草・島原の乱 歴史の散策
* 港から小道を登って行くと神社があります。乱に使用された武器はここの神社に設置されている石の鍛冶水盤で作られました。 当時、湯島には鍛冶職人28人が集められ、また皆キリシタンでもありました。 そしてこの島の人々も島原の原城に立てこもり、最後まで死力を尽くし、天に登っていったのでした。 島原の乱以降の湯島は、数年間無人島になりました。
現在の島民は.天草・島原の乱後に島守(しまもり)と.早崎海峡から有明海の奥に出入する船(主に外国等)を監視する.遠見番の役を担い他藩からの移住させられた人が多い。
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+++ 天草四郎時貞 +++
* 四郎には数々の伝説が残っており、幼い頃より数々の奇蹟を起こした、と伝えられています。湯島(天草と島原の間に位置する島)まで海の上を歩いて渡った、 四郎が手を高く掲げるとその手に水がたまり、その水が怪我人を癒した、 天から鳩を呼び、胸に抱くと鳩が卵を産みその卵の中からは 天主さまの経文が現れた、など。乱後の唯一の生き残りである
山田右衛門作の口述書の中で「四郎は、才知にかけて並ぶものなし、 儒学や諸術を身に付けたデウスの生まれ変わりである」と語られています。 また四郎はこの頃、大矢野.湯島.四郎と名乗っていたとも言われています。 |
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一丁墓(一ちょうばか)の二重歴史
* 雲仙・普賢岳の噴火爆発は,寛政四年(1792年)有史依頼最大の火山爆発と言われ,島原の眉山の一部が崩れ落ち有明海になだれ込んで,大波を生じ,大津波が対岸の宇土郡・玉名郡・飽託郡・天草郡に押し寄せ,島原は当然ながら,これらの対岸も,空前の大惨事をこうむった
湯島灯台の下海岸道路の土手の傍に,縦一米五十糎・横四十糎位の墓石がある。 表面には何の刻みもなく,側面や裏面は,土手の傾斜地に立てられている為土砂が押し出した形で埋もれかけている。文字らしきものもなく,何の手がかりもない侭,幾星霜の歳月に,浜に寄せる風波に晒されて立っている。 わたしたちの幼い頃,父母や村の古老から聞いたものは昔雲仙岳の眉山が噴火爆発した折に,おびただしい,しびと(死人)が,小白州の浜から,後平にかけて打ち寄せたという。
それを島人の手で全部,くえと附近に大穴を掘って合同埋葬された。 しかしその後小白州から先には恐ろしい異変が起きた。真昼というのに,死人たちの悲鳴の声やブツブツ嘆く声。 「やえもんやー船おろせー。やえもんやー船おろせー。」と。 泣き叫ぶようなうめき声がして,人は勿論,牛も通れない程の無気味さで,怖いところになってしまった。 困り果てた村人たちは,浮かばれない哀れな罹災者の身に思いをはせ,霊を慰め供養をしてやることを決め,この碑を建て念仏供養をねんごろに営んだところ,次第に異変は静まったということで゛ある。埋葬された,くえとの一帯は静まったということである。埋葬された,くえと一帯は早崎の瀬戸から打ち寄せる激しい潮流に洗われ侵食がひどく,今では全部が海浜と化して昔の面影を偲ぶよすがとてない状態である。
もう一つの説
天草.島原の乱は西暦1637年12月11日に勃発.明けて西暦1638年4月12日に. 終結した。終結後は幕府軍による首落しが行われ2万人とも4万人とも. 伝え聞く首なし死体が有明の海を浮遊したと聞く.潮流は引き潮には 原城.口之津方面にながれ満ち潮には湯島方向にながれる. (漂流ビンによる浮遊到着調査による。)
乱後.今だ他国え移住していない.前の島民によって流れ付いた死体を。 浜火葬にして.原城を望める小白州の西海岸の一本松にねんごろに葬ったと聞く。石墓は最初は何もない普通の石で.前島民が幕府命令により移住し残された。
現島民の島えの移住が始まり。当然のように隠れ供養は引き継がれた。しかし無念の斬首死は闇の深い夜や.霧の深い日は.船民を.陸では通る人々を.無念霊となって.苦しめた言う.(霊は.故老によれば白坊主説.それも身の丈は常人の4倍くらいの白装束で.あったそうです。たぶんに宗教的外人牧師さんの衣装的感じは残ります。)
その後は上記の説で雲仙普賢岳の爆発の犠牲死人も同じように現住民の 祖先による、浜火葬と供養埋葬が前死者の葬土と同じ場所に行われたと聞く. その際に堀返した人骨には首から上.俗に言う ”頭がい骨”は一つもなかったと伝えられる。 やがてキリスト教弾圧により供養さえも出来ない状態ではあったが、 島民は供養塔もそのままで後世の雲仙爆発犠牲流人と一緒に隠れ供養したと聞く.いや、今もそれは続いている。
それは.島民の.勇気.と.知恵.と.やさしさ.だと思っている。又今の供養塔は後世に建立され。他の切支丹墓に見られる。"一丁墓"(いっちょう墓)の文字が 入っていたと思っている。それはクルス(十字)を隠し表現する。まぎれもない 切支丹の隠れ墓文字に違いない。
「やえもんやー船おろせー。やえもんやー船おろせー。」の泣き叫ぶ声は. 幕府軍に内通し部下500人を寝返り説得に成功したが誰一人として生き残れなかった家臣の山田右衛門作えの恨みの声に聞こえはしないか。生き残った者は”四郎陣中旗”作者の山田右衛門作と潮流に乗って、湯島や天草の連絡の為に掘った地下坑道の中の3人であった。
その3人は幕府軍発見のとき正座をしていたと伝え聞く。
現在の島民は宗教的には。多くは浄土真宗である。 天草島民の悲しさだけを歴史に残した出来事であった。(浩)
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四郎等の談合の島波洗いうへに夕日す天主あるごと
* 物語の概要 与謝野晶子 夫と三角から島原へ向かう船上で歌を詠んだ。大矢野島と島原半島の間に浮かぶ「湯島」はキリシタンの歴史的役割を果たした島である。キリシタンが夜な夜な秘密の談合を重ねた歴史の島。別名談合島
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湯島四郎談合の峰
* 徳富蘇峰の筆による談合島の碑=上天草市・湯島の湯島公園で (郷土史家.宮崎常治氏)
上天草市の江樋戸港から定期船で約30分。集落は、島の南部斜面に軒を寄せ合っている。湯島出張所の市職員渡辺均さん(51)が案内してくれた。人口は現在、237戸の471人だ。ピークだった57年前に比べ、戸数で半分強、人口は4分の1に減った。 基幹産業は漁業。職場の少ない島は、若者には魅力に乏しく、島外に出る人が多く、少子高齢化が進む。湯島小、中学校の児童生徒数は計30人だ。 湯島はタイ釣りのメッカだ。手釣りで重りが着底したら、少したぐって誘うが、初心者には重りの着底が分かりづらいという。今どき、マキエなしで釣れることに驚きを感じる。 「湯島のタイは外海産より甘みがあり、姿も美しい。なんとか全国ブランドに」。津留滋・大矢野町観光協会長は気をもむ。妙案を模索しているという。 「乱があった江戸時代の物資輸送は帆船。有明海の潮の干満に乗れば、船脚は速い。佐賀と長崎を結ぶ、当時の交通の要衝だった」と、島の郷土史家・宮崎常治さん(77)は説明する。 刀やヤリ、鉄砲などの「武器製造所」もあったらしい。高台の窪みからは鉱滓(こう・さい)が出るため、製造所跡だったのではないかと推測されている。 その高台(標高104メートル)の湯島公園には「遠見塚跡」の説明板が立っていた。「見張りを立て、船が沖を通るとき、つち音が聞こえるのを恐れて鍛冶(か・じ)打ちを止めていた」とある。 湯島漁港から公園に向かうと、途中に「高山右近 隠棲(いん・せい)の跡」という説明板もあった。高山右近は豊臣秀吉に仕えたが、キリシタン大名だったため、禁教令で追放された。
地元では、同じキリシタン大名の小西行長を頼って湯島に来たと伝えられる。が、大矢野町史の編集を進める不知火町の郷土史家鶴田倉造さん(81)は「右近が湯島に来た史実はない」と言う。 右近は小西行長を頼り、その領地「ジュノー島」に住んだとする記録があるが、それは香川県沖の小豆島だという。 右近追放のころの行長の所領が小豆島だった。天草の領主になるのは天正17(1589)年9月だから、年代が一致しないというのだ。 この鶴田説に、宮崎さんは「右近が住んだ場所の地名は通称を高山という。右近が住んでいた名残かも知れない。小豆島から湯島について来た可能性もある」と譲らない。タイに加え、歴史ロマンにも満ちた島なのだ。
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